文章:(も)

こんにちは。少し間があき、桃の花びらとスギ花粉舞い散る季節になりましたが、
こちらはパズル雑考のコーナーです。

巷にはよろずの「問題解決」があふれていますが、
同じ「問題解決」の中でもパズルは妙に面白いものであるなあということを、
第1回から引き続きのテーマとして考えています。

だらだら考えた結果、前回でいちおう納得できる(おれが)結論のようなものが出たのですが、
簡単に書くと、問題解決界におけるパズルの特徴的なこととして

a) 手におえるくらいのほどよい問題のサイズ(莫大な時間や労力がかかったりしない)
b) 問題の条件が明解で、タイミングによって変わったりしない(どこが問題点かという焦点がはっきりしている)
c) 答えが1つ以上あることが保証されている

という面が見られるということでございまして、
「問題の大きさと形」をいい感じに絞りつつ、
答えの存在保証によりモチベーションを与えることによって
「問題解決にともなう快感」を純粋に味わいやすくしたもの、それがパズルなのではないか、といったことでした。

要はあれですよ、
遊園地のお化け屋敷や絶叫マシンは、
恐怖や危機に直面したときのストレスとその開放にともなう快感をエンタテインメント化したものだと思うのですが、
それと同じようにパズルは、
問題に直面したときのもやもやとその解決にともなう快感をエンタテインメント化したものではないか、と思ったのですね(おれは)。

ということで、おれ、もしくはわたくし的には腑に落ちたのですが、
仮に以上の仮説が妥当なものだとしたならば、
パズルがそのような性質のものである、というだけでなく
「良いパズル」というのもその条件の上に立てることができるのではないか、と思ったのであります。

つまりどのようなことかといえば、

上記のa)b)c)といった性質を持つ問題に対峙

もやもやが引き起こされ、ほどよい労力で解決する

快感を得る

という一連の流れが「パズルの楽しさ」の基本だとするならば、
この流れにちゃんと乗っていればいるほど「良いパズル」ということになるんじゃないかと。

たとえば「a)の特徴」に反して、時間や労力がけっこうかかる、
そのわりに最後に得られる快感が少ない、
というパズルだと、あんまり楽しくないわけですね。

あるいは、もやもやがあまり引き起こされない(悩ましくない)パズルは、
それにともなう快感の量も少なかろうと。

それはつまり具体的には難易度が高すぎて進められなくなったらつまらないとか、
悩むところがないくらいカンタンだと面白くない、
といったことになるのでしょうか。

また、b)の特徴をつきつめると、条件が明解であればあるほど気持ちいい、といえるかもしれません。
c)をつきつめると、答えが複数よりは、
バシッと必然性のある答え1個に収束する、というほうが気持ちいいかもしれない。

とかまあ、上記の「一連の流れ」を意識することによって、
あるパズルがいけてるかどうか判断するときの
ひとつの参考になるんじゃないかと思うのですね。

しかし書きながら思うのが、どれも非常に個人に依存する話ではあるよね、と。
難しすぎる、簡単すぎる、というのはその人のパズルに対する親和性と、
パズルをどのくらいやっているかによる熟練度に関わってくるし。
時間をたくさんかけてコツコツやった末に完成することに喜びを感じる人もいるし、
そんなの全然退屈だ、という人もいるでしょうし。

あと、もやもやが解消されると快感を得るわけですけども、
「解決法」の是非によっても快感かどうかは変わってきますよね。
うんうんうなって、いちおう答えらしいものは見えたけど、
その解け方はあまりすっきりしない、とかいうこともあるし。
ところが、その「解決法」を良しとする人も一方ではいたりするわけで。

うーん、「問題解決としてのパズル」の一連の構造については腑に落ちたわけですが(おれがね)、
その上で現実に応用すると一筋縄ではいかないわけですか。それはそうか。

ま、いろんな人がいて、快感のツボも多少違うけど、みんなちがってみんないいので、
いろんなツボを心得た上で、快感引き起こし回路の精度を上げていこうね、と、
ま、そういうことであります。よくわかんないけど。

えーい。春なのでこのへんでいいや。

ということで「問題解決界におけるパズルの特異的性質について」というテーマは、
たぶんここまでです。
次回があるなら、きっと別のことを書くでしょう。
そいでは。