文章:(も)
こんにちは、みんなパズルは好きかい?

特に意味なくフランクに書き出してみましたが、こちらはパズル雑考のコーナーです。このサイト「次ニコ」の前身のミニコミ『月刊ニコリスト』で「パズルを雑考する」と題して、毎回「パズルの面白さって何だろうか」といったそもそも論的なことを書き連ねていたのですが、このたびお引っ越しと相成りました。少しタイトルを短くしてあらためて再スタートしてみます。

あ、最初なのでもう少し詳しく説明すると、これまでたとえば「論理系パズルとひらめき系パズルの違いとは」「試行錯誤や先読みは楽しいかどうか」「パズルとクイズとゲームはどう違うのかしら」といったようなテーマの話を書きました。あといちおう、書いていく上でのスタンスというのもあって「結論はあまり出そうとしない」「寄り道や脱線は上等」「前と同じことを書いていたとしても気にしない」といったような、よくもカギカッコで堂々とくくれるなという緩い感じなんですが、ま、そういう趣旨でやってきてるんで、なにとぞここはひとつ。

そういったことで第1回目。今回は「問題を解くということ」について書いていこうと思います。ま、半年くらい前に『月ニコ』でも書いたのですが、それが中途半端になっていたのをさっき発見したもんで。

パズルというのはまあ面白いものでありまして、ま、もちろん面白くないと思う人もいるけれど、遊びの1つのジャンルとして成立しているわけです。で、パズルを解くときに何をしているかというと「問題」に「答える」ということをしているわけですね。この行為により、楽しい、面白い、気持ちいい、なんか落ち着く、といった良い感情が発生するから、遊びの1ジャンルになっていると。

でも「問題があってそれに答えを出す必要がある」という場面はほかにもいっぱいあるよなあと。クイズも、入試問題も、家庭問題も、環境問題も、どれも問題であるし、問題ということは答えを出す必要があるわけでしょう。

で、クイズは楽しい系のものですけど、上記のその他の問題は必ずしも楽しいとは限らない。うまく解決できて楽しいかもしれないし、そういうのを解決するのが好きな人もいると思いますが、おおむね楽しい問題ではないよね、と。問題にもいろんな種類があって、それに対し答えを出すという行為は同じでも、行為にくっついてくる楽しさの度合いには段階的な差があるのですね。

問題&解決というセットは同じなのに、楽しいかどうかが何でこんなにわかれるのでしょうね、と。そんなことを今宵は考えていきたいと思います…ということは恐ろしいことにここまでが前段なのですけれど。そして理由はもちろんわからないので、これ以下、書きつつ考えつつ、探っていこうかな、と思うとります。

で、まあ、とりあえずぱっと思い浮かぶのは「パズルには答えが1つしかないから」ということですね。よく言われることですけど。社会的、人間的な問題は、仮に解決したとしても、解決策がその1つとは限らないですよね。ほかにもっといい答えがあるかもしれないし。そして1カ月後には状況が変わっていて、今出した答えが通用しないかもしれない。

それに較べてパズルはどうよ? 答え、めっちゃ1つだし、何年たってもその答えは変わらないわけです。まあ、クロスワードとか言葉のパズルは言葉や常識が変わることにより解きにくくなる可能性はありますけれど。あ、あと、複数解を許容するパズルというのもたくさんありますか、プラパズルとか。うーむ。そうなると「解の一意性」説は怪しいかもしれない。

でもなんでしょうね、パズルは解けたときにこう、「解けた」とはっきりわかる感じがあって、その感じが良さ(の1つ)であるとは言えそう。解けると「つじつまが合ったなー」という感じ。整合性がとれたというか、カオスだったものに秩序が通ったというか。

なんというか、「混沌としていたもののつじつまが合うことにより、気持ちいい」「つじつまが合うということは解けたのだなと自分でわかる」という、「つじつまが合う」を軸にして「ピタッとくる気持ちよさ」と「達成感」が同時に来るのがパズルにおける解けた喜びの正体である、とか? いやこれはあくまで今考えた仮説ですけれども。

第1回なので軽めの話題を短めに書こうと思ったのに、仮説の段階ですでに重めで長めになってしまいました。次回があるならば、同じテーマでさらに深く行きます。そしてご意見とかご感想とかがあれば、「お問い合わせ」のところから送ってくださいませ。

ではー。