どうも(ケ)です。
ニコリ本誌でのクロスワード100年史の連載は終わったので、これは補遺というよりは蛇足なのです。
今から百年前、大正14年すなわち1925年の秋。
サンデー毎日・大正14年10月4日号で、連載していたクロスワードの懸賞応募を取りやめるという告知がされました。ちなみに懸賞応募は30回続いていました。
そして11月15日号で、クロスワードパズルの連載が終了。代わって新パズル「桂馬跳び」が発表されます。
今から百年前のクロスワードブームの、「終わりの始まり」は、このように現れてきたのでした。
サンデー毎日10月4日号の「クロスワード懸賞中止について」の告知では、「クロスワードは今後益々健全なる発達を遂げんとする状態にあります」「クロスワードが頭脳の錬磨に益する所が多い」「こうした遊戯によって仮名文字に親しましむることが国字改良の期を早める一つの有力な動機となるであろう」「今後はもはや懸賞によるまでもなく、その流行は時と共に盛んならんとする状態を呈しています」などと書かれています(漢字仮名遣いは現代のものに直しました)。
でも実際は、この翌年、1926年になると、潮が引くようにブームが鎮まってしまうのでした。
なぜ、大正時代のクロスワードブームは終わってしまったのか。
大きな要因の一つが、横行した「懸賞詐欺」であっただろうな、と思います。
このころの新聞記事データベースを調べると、1925年9月頃から、懸賞詐欺のニュースが報じられています。あなたは懸賞に当選したので、賞品の送料を送れ、という手紙を送り、相手に切手を送らせるもの。一件一件は少額でも、何千通何万通も詐欺手紙を送れば、だまされる人もそこそこいて、儲けになったんだろうなあ。
このころのクロスワード人気には、懸賞広告の割合が大きかったようです。多くの広告に懸賞クロスワードが使われていました。しかし、こういう詐欺がはやると、懸賞クロスワードという広告手法が成立しなくなります。応募は減ったでしょうし、広告主も別の方法を模索したことでしょう。
これが、クロスワードの流行に水をかけたのではないかな、と私は考えています。
大流行による粗製濫造、質の低下が原因だった、という説も聞くことがあるのですが、実はその説には、私はあまり納得できません。
質の悪い問題の増加は、質のよい問題が減る原因にはならないからです。
さほど質の高くない問題の数が増えたのは、事実だったかもしれません。ただそれは、母集団が大きくなったことによる数の増加ではないでしょうか。
「どんなものも、その90%はカスである」という、スタージョンの法則(スタージョンの黙示)を私は好きなので、余計にそう感じます。あるジャンルのすそ野が広がれば、品質の低いものも当然に増えます。平凡なものがたくさん積み上がったその上に、優れたものが現れる、と考えています。

大正時代のパズルブーム終焉の背景には、パズルを楽しむ側の要因もあったのかもしれません。
大正時代、クロスワードが日本に初めて登場したときには、日本人はみんなクロスワードに慣れていませんでした。パズルを楽しむための土壌が、まだまだ成熟していなかったんじゃないか、と思います。
その未熟さゆえに、クロスワードへの反応は過剰にエスカレートし、クロスワードブームに狂奔する事態が生まれたのではないでしょうか。
そして、過剰反応的なブームの熱は、結局のところ、冷めるのも早かったのではないでしょうか。いつの世も、流行りすたりはめまぐるしいものです。
大正時代のブームから半世紀あまり、80年代になってパズルブームが再燃したときには、パズルを楽しむ土壌が、大正時代よりは成熟していたのだろう、と私は考えています。
「土壌の成熟」とは、面白いものを好む人の増加、遊び心を刺激するものの増加、とも言い換えられる気がします。
60年代に人気となった『頭の体操』や、70年代のエッシャーや安野光雅、福田繁雄などのパズル的なアート。70年代後半のサブカルやSFの流行なども、土壌の成熟に役立っていたのかもしれません。
そしてその結果、1980年のルービック・キューブの流行を経て、日本のパズル市場は幸福な成長を遂げられたんじゃないかなあ、などと思います。
さて、最後にクロスワードをどうぞ。「終わり」をテーマにしてみました。
パズルを楽しめる社会は、いつまでも終わりませんように。
それではまた次回。
(次回は2025年11月26日更新予定です)
