どうも(ケ)です。
前回、クロスワードの前身ともいえる、ワードスクエアということば遊びに触れました。
そして、ワードスクエアのままでは広く楽しまれるパズルにはならなかっただろう、それをクロスワードという新たな形に生まれ変わらせたことで、多くの人が楽しめる量産可能なエンタメになり得た、というようなことを書きました。
今回はそこをもう少し掘り下げてみます。
ワードスクエアをパズル的な出題として捉えた場合。
問題文として書き直すなら「文字数N文字の言葉をN語並べて、タテにもヨコにもN文字の言葉N語として読めるようにしてください」となるでしょうね。
実はこの出題、条件を満たす解答が存在するのかどうか、出題者が知らなくてもできる問いかけです。
この出題に対する解答は、盤面そのものになります。そして出題者は、解答者から出てくる解答がどんなものなのかを事前に知ることはできませんし、またいっさい知らなくても出題として成立するのです。
つまり、解答者がたどる正解ルートは、事前には用意されていません。たどりつく正解も用意されていません。
これはまあ、あたりまえ。ワードスクエア、パズルっぽいですけど、本来はことば遊びなのですし。
さて同じように、クロスワードも見直してみましょう。
出題としては「ヒントを頼りに言葉を類推し、盤面の白マスへ文字を書きこみ、できあがる言葉を盤面上でうまく交差させ、白マスをすべて埋めてください」というような問題文になるでしょうね。
当然のことながら、解答は事前に用意されています。出題者は解答の盤面を知っています。出題者の意図に沿って解いていけば、解答者は、解答盤面と等しい答えに必ずたどり着けます。でなきゃパズルとして失格。
先のワードスクエアとは対照的に、正解へ至るルートは出題された時点ですでに用意されているのです。
大胆に「模型」に例えてしまうなら。
ワードスクエアは、すべてを1から作り上げる、フルスクラッチの模型。
最終形の構想や材料の選別、作業の進め方など、すべてを作り手が計画し用意し、完成をめざします。本当に完成できるか、制作を始める前には誰にもわかりません。
それに対してクロスワードは、キットが用意されていて、それを組み立てる模型。つまりはプラモデルなのです。
ゴールとなる完成形はすでにあり、作り上げるのが可能なのは保障済み。作り手は、解き手にさまざまな指示を出して、完成への道筋を示します。解き手はその道筋をたどる過程で、完成へと近づく楽しみや、完成したときの達成感を得ることができます。
念のために書きますが、これは、どちらが優れているみたいな比較をしたいわけではなく、そもそもの性質が異なっているという再確認です。
ワードスクエアは、盤面を完成させた達成感を味わえることば遊び。
クロスワードは、ワードスクエアで味わえる達成感を、より手軽にかつ着実に体験するために開発されたパズル。
こう捉えると、クロスワードのような「ルールに従って考えて、用意された答えを見つけ出しましょう」という遊びの構造そのものが、実は革命的だったんじゃないかな、という印象があります。
正解へたどり着くための手段が明示されておらず、その手段は解き手が一から考え出さねばならないパズルもあります。クロスワード以前にはそういう種類のパズルがふつうだったと思います。
それに対してクロスワードは、ルールに従い解き進めさえすれば(悩まされたりすることはあるけれど)正解への道を少しずつでも進んでいけます。正解を目指すための手段は常に準備されていますし、それは解き手の前に示されています。
作者が用意した答えへ、解き手を無事にたどり着かせるために、そしてその過程で解き手を楽しませるために、いろいろな努力や手立てが詰めこまれた、遊びのスタイル。
クロスワードによってこういう種類の新たな遊びが誕生したのです。
そしてクロスワードは、パズルと解き手の新たな関係も誕生させたんじゃないかな、とも思うのです。
作者が、解く人を無事に正解へたどり着かせるための手立てを考えるようになることで、作り手と解き手の、パズルを介したコミュニケーションもより強くなった。パズルを通じた対話ができるようになった。そんな見方もできるんじゃないでしょうか。
さてさて。
今回も最後に問題をどうぞ。「完成」をテーマにしてみました。
ではまた次回。
(次回は2024/6/26に更新予定です)