どうも(ケ)です。
クロスワードのヒントは、情報を省略します。
解く人に、足りない情報を考えさせるためです。
正しい答えへとたどり着く思考を楽しませる、それがクロスワードの役目なのですから。
クロスワードのヒント、しばしば辞書の定義のような書き方をしますが、そういうヒントばかりだとパズルとして無味乾燥になりがちです。
正しくて間違っていない文章は、その文章がどういう言葉を意味しているのか、着実に指ししめすことができます。しかし、情報として潤沢で曖昧な部分のない、答えがすぐに導き出せるヒントばかりだと、「ヒントを読む」「言葉を思いつく」「その言葉をそのまま盤面に書く」という工程の繰り返しで、解く過程が単純作業になりがち。
やはり、多少なりとも悩ませる部分がないと、パズルとしての味、解き手に与える楽しさが生まれてこないと思うのですよね。
だから、ヒントはしばしば、必要な情報を省略し、意図的に対象を曖昧にして、解き手を悩ませるような表現になるのです。
素っ気ないくらいシンプルなヒントというと、英語クロスワード、特に米国のクロスワードが思い浮かびます。米国では、クロスワードのヒントが短めで、シンプルで簡潔なものが多いという特徴があります。ヒントが単語数語、ときには1語などという例も少なくありません。全文字がタテヨコに交差するカックロ的な盤面の米国クロスワードだから、それだけシンプルで情報量が少ないヒントでも、きちんと解けるのでしょうね。
他の単語と交差しないマスが多い、スケルトン的な盤面の英国クロスワードのヒントが、逆さ言葉やアナグラム、シャレなどのことば遊びを多用する、凝ったつくりのものなのとは対照的。このあたりは、同じ英語のクロスワードでも、お国柄が出ていておもしろいですね。
さて、わが日本で、文字数を少なめに短く表現する文芸で忘れてならないのが、俳句です。「世界最短の定型詩」ともいわれますよね。
俳句は五・七・五の十七音ですから、ともかく短い。ここに季語を入れたり切れ字を入れたりすればさらに残り文字が減ります。よけいな言葉を入れる余地はなく、自然にいろいろと省略して、その中で詩情を表現しようとなります。
私は俳句を読む、「詠む」のではなくて「読む」のが好きです。この句はどんな情景を詠んでるのかなあ、作者は何を考えてこの句を作ったのかなあと、あれこれ想像するのが楽しいのです。
与謝蕪村の絵画的な句、例えば「さみだれや大河を前に家二軒」とか「菜の花や月は東に日は西に」なんかは、想像の余地がたっぷりあって好きです。河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」も、なにかのドラマが背景にありそうでおもしろい。
読み手が勝手に解釈し想像の世界に遊べるのも、俳句が短くて表現が省略されているからこそなのですよね。
かつて「論文には誤読の余地を残してはならない、文学には誤読の余地がないとつまらない」という意味の教えを受けたことがあります。これは論文執筆中に言われた言葉で、つまりは文章力不足で論文が誤読されるぞ、と叱られているのですが、それはともかく。
文学は、小説にしろ詩歌にしろ、読み手が想像を広げて誤読するくらいの余地がなければ心を動かせないというのは、たしかに納得できました。
その意味ではクロスワードも、解き手の想像力や連想力を利用するというところで、俳句のような「省略の文学」に通じる部分があるんだろうな、と勝手に考えております。
もちろん俳句と違って、クロスワードのヒントには正解がちゃんと用意されているわけで、そこへたどり着かねばなりません。そこまでの悩む過程が楽しいのですし、解き手をいかに楽しく悩ませるかに作者は心砕かねばならぬよなと、これは自戒。
そのために、省略という手法もうまく使っていかなければならないのです。ヒントに情報を盛りこむばかりが手段ではないのです。
さて今回のクロスワードは、ヒントの情報省略がへんな方向にこじれた「3文字クロス」です。すべてのヒントが漢字3文字。お悩みください。
ではまた次回。
参考資料
「遠山顕のクロスワードの謎」遠山顕 日本放送出版協会