どうも(ケ)です。
クロスワードのヒントが、間違っていたらたいへんです。
文章や事実関係が間違っていたら、ヒントが指ししめす答えにたどり着けなくなり、クロスワードが解けなくなってしまうからです。
だからヒントは正しさを意識していないといけません。

正しい文章を書くというのはしばしばやっかいなものです。
例えば「カニ」のヒントで「ヨコに歩きます」と書いたとします。カニの横這い。有名ですね。
ところがあまたの種類がいるカニの中には、ヨコにではなくタテ方向に歩けるやつらもいるのです。例えばアサヒガニとか、ミナミコメツキガニのようなカニです。
「カニを『ヨコに歩きます』というなんて、タテに歩くカニのことを無視するのか、それは無知ゆえの決めつけだ」「そんな不正確なヒントでクロスワードが解けると思ってるのか」などと言われちゃったらどうしましょう。

それじゃ、カニのヒント、「ヨコに歩くものやタテに歩くものがいる」としましょうか。これならアサヒガニもミナミコメツキガニも納得です。
でもこのヒント、なにか意味のあることを言ってるのでしょうか。このヒントを読んだ解き手に、答えのものが歩けるというのは伝わるでしょうが、だからといってたいして情報が増えません。
むしろ「ヨコやタテ、いろいろな方向へと歩く人がいる状態が答えになるのかな」みたいに、アサッテの方向への誤解を解き手にさせてしまいそうです。
不正確になるのを怖れて小手先で表現をいじって解決しようとして、結局こんな混乱におちいるのは、クロスワードのヒントを付けていてよくあることです。よくあるようではいけないのですが、よくあることです。

「例外のない法則はない」なんてことを言いますが、例外を無視したら一面的になりますし、例外を重視しすぎてもピントのぼやけた文章になりがち。
断定形の文章は、例外を排除して、さきほどのような問題を呼びやすいですね。
かといって断定を避けすぎるのも、伝えるべきことが伝わらなくなり、ヒントとしての機能を減じてしまうのです。

解決策のひとつとしては「すべてを断定せずに、部分的な説明にとどめる」方法がありえます。
先のカニの例ならば「ヨコに歩く生き物といえば」というヒントはどうでしょう。
このヒントには、横に這う多くのカニが当てはまります。ですから、このヒントでカニを連想できる人も多いでしょう。たとえ横に這わないカニがいたとしても、いま言及しているのは「横に這うカニ」のことなので問題はありません。
クロスワードのヒントは、答えの言葉を解き手に思いつかせる機能をもつ文章であり、辞書的に正確な内容を記述する文章ではない、というところがポイントなのですね。

断定するヒントはやっかいなものです。
例えば「おいしい野菜」というヒントがあったら、これはどうなるでしょうか。
人によって、おいしいと思う野菜はさまざまでしょう。キャベツをおいしいと思う人がいれば、ダイコンをおいしいと思う人もいる。トマトをおいしいと言う人もいれば、トマトはおいしくないと言う人もいる。そもそも野菜はみんなマズいだなんて過激派も出現し、それに対してベジタリアンが猛反発します。大混乱で収拾が付きません。
こういうシンプルな断定形のヒント、解き手の共感を呼べない場合、ヒントとして機能しなくなってしまいます。
作者は答えになる野菜をおいしいと考えているのでしょうし、そのこと自体は間違っているとは言えないのですが、解き手に答えを思いつかせるという点で失敗しているのですね。

でも今の「おいしい野菜」のようなヒントにも、評価すべき別の面があるのです。さきのヒントには発言の主がありませんが、それが現れると新たな意味が生まれてきます。
すなわち「エッセイ的なヒント」という意味です。

「私がおいしいと思う野菜」
このヒント、間違っているか否かは、その私、発言者が証明するしかありません。視点を変えれば、作者である「私」がおいしいと言えば、それが正解。
エッセイ的なヒントは、作者にとっての真実ですから、間違いにはなりにくいという特徴があるのです。

エッセイ的なカギは間違いを言わずにすむ、そのほかにも利点があります。
「作り手の顔が見える」というのがそれです。
作る側の個人的意見が盛り込まれているだけに、個性がそこに表れてきます。解き進めるうちに、作者の人柄が、解き手に伝わっていきます。
無味乾燥な知識や情報の固まりではなく、ある一人の個性を浮き彫りにするヒント群。
それが、独特の解き味をもたらしたり、作者本人への興味を生み出させたりするのは、自然な流れだと言えるでしょうね。クロスワードが、解き手を考え込ませる単なる問題ではなく、解き手の心を動かす作品へと発展していく可能性が秘められていると、私は考えます。

ということで今回のクロスワードは、私(ケ)のエッセイ風味のヒントを付けたクロスワードです。それぞれのヒントは、私個人の意見や感想です。それぞれの文章が、私(ケ)にとって正しいことは、私本人が責任を持って保証いたします。

それではまた次回。