文章:(ケ)

クロスワードのヒントで、空いているところに答えの言葉が入りますよ、という形式の文章があります。例えば「――も木から落ちる」「うそから出た○○○」みたいなヒントですね。
ニコリの出版物では、そこに答えが入る記号として、“――”、棒引き線とかダーシ、ダッシュなどと呼ばれるものを使っています。他社の本では、この“――”の代わりに、答えの文字数分の○を並べる場合が多いようです。
ニコリが作っているクロスワードでも、○○方式のヒントを使っているところもありますよ。たとえば「NHKきょうの健康」テキストに載っているクロスワードは○○方式の例です。このへんのフォーマットは、その問題が載る媒体の意向に従っています。

私(ケ)の個人的な好みでいうと、○○方式より棒引き線のほうがありがたい。○○方式は、そこに入る言葉の文字数と同じ数の○を並べますが、私はしょっちゅうそれを数え間違えるのです。算数がたいへんに苦手なものでして。

もう少しアタマの悪くない点で比較すると、答えの言葉が長くても、棒引き線ならばヒント文章が間延びしないという利点があります。
例えば、リヨクオウシヨクヤサイ(緑黄色野菜)のヒントで「トマトは緑黄色野菜の一種」という文章を元にする場合。
このヒントを○○方式と棒引き線のそれぞれで書くと、
「トマトは○○○○○○○○○○○の一種」
「トマトは――の一種」
となります。○○方式は2倍の長さになっちゃいます。ヒントを短くまとめたい場合には○○方式は若干相性が悪い。

○○方式は、何文字の言葉を入れるべきかすぐわかる点では、棒引き線にまさっています。あと、空白部分の途中で改行できるのも利点でしょうか。棒引き線が改行にまたがるのはあまりよろしくないのです。

棒引き線は、何文字の言葉でも長さが変わらないので、下のような使い方もあります。
「ねこに――」(注・答えは3文字)
「ねこに――」(注・答えは5文字)
たぶんすぐおわかりになったでしょうが、それぞれコバン(小判)・カツオブシ(鰹節)が入ります。入る言葉も文字数も違うのに、見かけは同じヒント。ちょっとしたアイキャッチにもなりますね。

○○方式と棒引き線、それぞれの起源はどこなんでしょうか。
第1回でも紹介したとおり、日本で最初のクロスワードは、サンデー毎日・大正14年3月1日号で紹介された問題です。そこにはすでに「布団を――(動詞)」という棒引き線スタイルのヒントがあります。答えは「シク(敷く)」です。
また、大正14年5月12日・東京朝日新聞夕刊に掲載されている「サクラビール」広告のクロスワードには「××は金なり(有名な格言)」というヒントが見られます。こっちの答えは「トキ(時)」ですね。
つまり、日本のクロスワードでは、最初のころからすでに○○方式と棒引き線双方の形式が存在したし、両方とも読者に受け入れられていたわけです。どちらも同じくらい由緒がある表記法なのでした。

いろいろ考えているうちに、○○方式で文字を隠すやり方、「伏せ字」に起源があるのではないか、と思い至りました。
そこで伏せ字の起源を調べてみると。「近代日本の言説における〈伏字〉の基礎的考察」(牧義之, 中京国文学(29), 19-40, 2010)という論文が見つかりました。
この論文によると、伏せ字は明治以前の慶応年間あたりまでさかのぼれるようです。これは古い。
伏せ字の多くは○や□などの記号を使いますが、なかには隠す文字を記号にせずに、空白のままにしておくものもあったとか。これは棒引き線スタイルの変形といえるかも。
読む側は伏せ字に文字を当てはめて読み解こうとするわけですが、そこを遊びにしたのが昭和31年ごろに大流行したボナンザグラム。これはクロスワードのヒントに通じるものがあります。

辞書の用例でも、棒引き線を使っていますよね。国語辞書の元祖ともいうべき大槻文彦・編『言海』にもすでに棒引き線が使われてたようです。
ところで広辞苑で「ぼうびき」を引くと、用例に「借金を――にする」と棒引き線を使って書かれていて、これはなかなかうまい文章だなあ、と昔から感心しております。

日本人は棒引き線にも○○にも、古くから慣れ親しんでいたために、クロスワードのヒントにもそれらが使われてきたのでしょうね。

さて、言葉を隠すやり方としてはもうひとつ、ホニャララなどで言い換えるやり方もあります。ちなみに「ほにゃらら」は、大辞泉や三省堂国語辞典などには項目としてちゃんと出ています。起源は70年代のクイズ番組「ぴったしカン・カン」だそうな。
1980年発行の、「パズル通信ニコリ」創刊準備号に載っている「ビッグ・クロス」にも、その例は出てきています。ただしけっこうアバンギャルドな使い方で“一高ホニャラ歌”“ヤキトリ、「塩?ホニャ?」”などといった文章。
パズル雑誌の黎明期ゆえの、荒削りな表現法だなあ、とは思います。でもこの自由奔放さは、今のクロスワードから失われているのかも知れません。このくらいのパワーを持ったヒント表現を模索していかなくちゃいけないな、教科書的なフォーマットに安穏とおさまってちゃいけないな、と自戒しながら、今回はここでおしまいです。